SaBaCaN ~趣味の缶詰~

とりあえずは自分の趣味に対するレビューを書いていきます。

リビングデッド・ユースを聴いて~死にながら生きていく若者たちへ~

 ここの後くらいから米津玄師を聴き始めたサドル・ドーナツです。


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名盤の幕開け

 さて、この曲は『YANKEE』の初っ端に収録されている曲で、それ以上でもそれ以下でもなかった気がします――というのもタイアップでもシングル収録でもないなので、絶妙に世間での認知度が低い曲なのです。

 ある程度、米津沼にハマっていると『YANKEE』聴くときにめちゃくちゃ聴く曲ではあるのですが、しかし、一般層には浸透していない気がします。

 まぁ、12年前の曲だし、高望みはできないですね、はい。

明けない夜もある

さあ 目を閉じたまま歩き疲れた この廃墟をまたどこへ行こう

そう 僕らは未だ大人になれず 彷徨ってまた間違って

こんな悲しみと痛みさえ どうせ手放せないのならば

全部この手で抱きしめては 情動遊ばせて笑えるさ

 『僕ら』は彷徨い続けています。廃墟の中を、目を閉じながら。当然突っかかって転んでしまいます。

 僕の印象としては、廃墟っていうのはこの社会全体を指していて、高校生みたいな若造ですかね、そんな人たちがなかなか大人になれないもどかしさが読み取れます。

 そんなマイナスな感情はこの身からは離れないものです。それならばいっそ抱きしめてしまい、一時の感情にして笑ってしまう。

 自棄になってはいますが、それでも笑っていたいという意志を感じます。

さあ 呪われたまま笑い疲れた この現世をまたどこへ行こう

もう 息も続かない 喉も震えない 失ってまた躊躇って

「嫌い」を吊るしあげ帰りの会 どうせ負けてしまうのならば

弱いまま逃げてしまえたらいい 消して消えない灯りの先へ

 しかし、笑っていられる時間も短く、体力はいずれ尽きる。息も続かなければ声も続かない。

 学校の帰りの会で、何かがいじめられている。声も出ない状況では勝てるはずもありません。それならばいっそ逃げてしまえばよかった、消えないような灯りの元へ。何も救えなくても。

 後ろめたさと、それを受け止める優しさ。どちらが“現在”かはわかりませんが、その二者には時間軸の隔たりを感じます。『何か』が先の世界から語り掛けてくるようです。

シクシク存在証明 感動や絶望に泣いて歌う

迷走エスオーエスの向こうに 救命はないのを知っていたって

精々生きていこうとしたいんだ 運命も偶然も必要ない

遊ぼうぜ 明けぬ夜でも火を焚いて今

そんなそんな歌を歌う

 我は泣く、故に我在り。といったところでしょうか。感情が揺れ動き、シクシクと泣き喚いている間は自分を感じられるようです。

 助けを求めたってどうしたって救いはありませんが、それでも精一杯生きていきたい。そこには確定要素も不確定要素も入る余地はなく、ただあるがままに。

 そしてまた先の『誰か』が語り掛けてきます。『遊ぼうぜ』と。明けない夜のような絶望の中でも、火を焚いて、その元で。

痛みに襲われる

さあ 笑われたまま願い疲れた この隘路をまたどこへ行こう

どうにも日々は無常 頓智気やれば非道 貶されてまた傷ついて

死球を見逃したアンパイア どうせ公正じゃないのならば

僕はせめて味方でありたい 信じられないならそれでもいい

 笑われ傷つきながらも歩き続けます。

 人生はまったく同じ形を保ち続けることはないが、それでも頓智気なことをすれば非道と貶される。

 アンパイア(球審)もデッドボールを見逃すような不公平な世界。それでも『僕』は傷ついている『誰か』の――それとも先の『僕』が傷ついている過去の『僕』の――助けになりたかった。そこに見返りは必要なかった。

ドクドク精神胎動 欠乏も飽満も見過ごして

劣等身体もう維持限界 散々呪いを受け取ったって

精々生きていこうとしたいんだ 慢心も謙遜も必要ない

許したいんだ 消せぬ過去から這い出すような

そんなそんな痛みを

 まだ生まれる前の未熟な精神。他の人と比べて弱い身体。限界のサインを見逃し続け、そのどちらも維持が辛い。

 それでも精一杯生きていたい。自分を高くも低くも見積もらず、ありのままで。

 前述したいじめに関する何かでしょうか。『僕』は被害者であったか、それとも傍観者であったか、多分後者なのでしょう。その傷から生じる痛みを『僕』は未来でも引きずって生きています。それを許したい。でもきっとそれが許されることではないと分かっているのでしょう。過去は消せないのです。

リビングデッドの呼び声

痛みで眠れないまま 彷徨い歩く僕らは

死にながら生きるような姿をしていた

思うように愛せない この世界で生きる為

血まみれのまま 泥沼の中

僕らは願い また歩いていこうとする

 過去からの痛みに苦しみながらも、『僕ら』彷徨います。それはまるでゾンビのような風体だったのでしょう。タイトルの『リビングデッド』はここで回収されるのです。

 世界を愛したいんだけども、世界は思ったほどに美しくないし、『僕ら』もそれほどは強くない。

 それでも愛せない世界の中で生きていたいとは願っているのです。過去からの痛みで身体が傷だらけだったとしても、泥濘に足を取られようとも、未来に向かって歩いていきたいと『僕ら』は望んでいるのです。

 きっと、美しくはなくっても、生きるのにはその願いだけで十分なんです。

シクシク存在証明 感動や絶望に泣いて歌う

迷走エスオーエスの向こうに 救命はないのを知っていたって

精々生きていこうとしたいんだ 運命も偶然も必要ない

遊ぼうぜ 明けぬ夜でも火を焚いて今

そんなそんな歌を歌う

 これまでの全ての文脈が載って来ると、繰り返しのサビでもまた違って聞こえてくるでしょう。

 世の中うまくはいかないことだらけだけども、『僕ら』はまだ“若者(youth)”なんです。少し気楽に、焚いた火の元で遊んでもいいのかもしれません。

 とにかく『生きろ』。そう呼びかけてくれているのです。

 そんな死んだ魚の目をした若者に対する応援歌、なのだと私は思っています。

 米津玄師は当時20代前半なので、やはり、学生とかに語り掛けていたんじゃないかなぁと思っています。

 そして、過去に縛られ大人になり切れない僕たちにも。

 それでは次回は『アイネクライネ』ですね。See you again!