『恥知らずのパープルヘイズ』のアニメ化を心待ちにしているサドル・ドーナツです。
YouTubeでジョジョの配信やっていて、丁度5部の最終回付近が配信していたんで観ました。めちゃくちゃ感動したんで改めて考察を書こうかなと思ってこの記事を書き始めました。
ローリング・ストーン(ズ)
少年時代、5部を最後まで読んだ時、どうしてこんなエピローグがあるんだろうと疑問に思いました。急に過去の話が出て来て、あまり本筋とは関係のない、ジョルノも関係しない話だったのでどうしてだろうと思ってたんですよ。
でも僕が少し成長し、アニメまで観たところでそれがどうしてなのか、「言葉」でなく「心」で理解できた、と思います。
まずこの話をするには5部のラスボスであるディアボロのスタンド、キング・クリムゾンについて語らなければなりません。
キング・クリムゾン
さて、キング・クリムゾン。時を飛ばすめちゃくちゃ強いスタンド。しかし、今回メインで語りたいのは、そのおまけみたいについてくる(それでいてめちゃくちゃ強い)エピタフの方です。
エピタフはすごくシンプルな能力で、予知能力、なんです。エピタフで見た光景は絶対実現するので、それを頼りにキング・クリムゾンを連発して戦っていますね。
やはり悪役の技というだけあって、その方法って物語の倫理観では否定されるべき事柄なんですよね。
だって、悪役の反対、主人公のジョルノが。
「覚悟」とは!!
暗闇の荒野に!!
進むべき道を切り開く事だッ!
って言って、この後ギアッチョに勝ってるんで、作者的にはこちらの方が正しいと伝えたいんですよ。
つまり、「未来を見て、その未来が来るまで時間を飛ばして待つ」生き方って間違ってるよね、と多分伝えたいんだと思います。
これって荒木飛呂彦の中では一貫していて、続く6部でも、「未来を知りながら、それを受け入れてその時を待つのは幸福だ」って悪役が言ってその後負けてるんです。
だからどうしても「未来を覗き見る」よりは、「見えなくても切り開いていく」行為が尊いのです。
しかし、どうしても避けられない運命があって、それが見えてしまった時は?
再びローリング・ストーン(ズ)
ローリング・ストーンズは運命です。死を示してくれているのです。
ローリング・ストーンズはブチャラティの死を示します。これは運命で避けられない――言ってしまえばエピタフの効果と全く同じなんです。
ラスボスの能力の片割れと同じ、運命を覗き見る行為――しかし、ローリング・ストーンズは打ち負かせる存在として描いていません。砕いたと思っても、犠牲者が増える形をローリング・ストーンズはかたどります。
では、どうなんでしょう、結局ディアボロの行っていたことが正しいということになるのでしょうか。
答えは否です。
例え運命が決まってしまっていても、その過程でもがくことこそが、人間には肝要なのだと、荒木飛呂彦は語っているのです。
ローリング・ストーンズに対してもがくことで、犠牲者は増えましたが、それは物語が延びたことを意味します。
増えた犠牲者はアバッキオとナランチャ。彼らはいずれもボートに乗ってボスを裏切る覚悟をした後で死んでいます。つまり死者がブチャラティだけの場合ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ島で一行の旅は終わっていたものと思われます。
それが、コロッセオまで運命は延びたのです! コロッセオでナランチャが死の運命を迎えるまで彼らの過酷な旅路は延長されたのです!
非情ではありますがそれ故に彼らはディアボロという悪を打ち倒すに至れたのです。
運命の観測者
そんな章が時系列の最初からあったかのように物語に挟まれます。
つまり、運命は最初から在った、としたのです。しかし、それでも彼らはあがいて悪を打ち倒した。その過程にこそ黄金の精神は存在するのです。
それはまるでマンガその物の在り方を問うているようでもあります。
我々は知っています。大抵の物語で悪が挫かれることを。正義が栄えることを。ではマンガを読む意味はないのでしょうか? 結末がわかっているなら、過程などどうでもよいのでは?
やはり答えは否です。我々は正義がもがきあがくその過程にこそ黄金の精神を見るのです。我々は物語の奴隷である登場人物たちが、『眠れる奴隷』であることを祈って止まないのです。
僕は5部が好きです。こういう荒木飛呂彦の哲学が一番深く表現できている部だと思うからです。
我々は運命を読んでいる。それでもその過程を楽しむことを認めてくれてる気がするからです。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
アメコミ、マンガ、雑記、等々いずれかの記事でお会いしましょう。
See you again!
